さめたコーヒー

kbaba1001's blog.

死生観について

死について考えることが多い。時々そんなTweet もするせいか、知り合いから死に関する相談を受けることもたまにある。 僕の死生観は一般的なものとは少し違うように思う。そもそも他の人の死生観を聞く機会が殆ど無いので、一般的な死生観がよくわからないが...。 今回は僕の死生観について書いてみようと思う。

不快に思う人もいるだろうから、そういう人は読まないでくれ。

大まかに言うと次のような感じ:

  • 死は生よりも美しい
  • 短命は美徳
  • 人間は疲れて生まれてきて、休むために生きている
  • 人生に目的はないかもしれないが、納得の行く最期を見たい
  • 生きることに向いてない人間は死んだ方が幸せなのかもしれない
  • 人間は他の生物同様、簡単に死ぬ。つまり命は軽い。命を大事だと思うなら自分で守らなければならない。

ひとつずつ見ていこう。

死は生よりも美しい

死という状態はどこか魅力的だ。どんな人間も死んでしまえば良い人になれる。 どんな言葉も真実味を帯びてくる。

カート・コバーン音楽史に名前を残せたのは27歳で自殺したからだ。 もしカートがまだ生きていたら、今頃誰も Smells Like Teen Sprit を聞かなかっただろう。 ときどきラジオの懐メロ特集で流れてきて「ああ、昔そんな曲もあったね」というだけだ。 カートとしてはその方が良かったかもしれないけど...。 カートが27歳で自殺したから、世界は彼の音楽に対する思いを認めた。 カート・コバーンという悲劇が完成した。

死は生の終わりだ。誰だって物語の Ending を一番気にする。人生も同じ。 その死が納得できればできるほど、その人の人生は肯定される。

生というものはひどく醜い。泥臭く、むきだしで、みっともないことばかり。 何一つうまくいかず、ひたすらに辛い。 たとえ恋人や伴侶がいたとしても、人間は一人で生まれて一人で死ぬ。 どうしようもなく孤独で、生活は煩わしく、正解はわからない。

ただ生きているだけで廃れていくものもある。 もしカートが今も生きていたら、「音楽に対する哲学があるって言うけど、でも Smells Like Teen Sprit は売れたし、儲かってよかったんだろ」と周りは言う。 カートが自殺したから、世界は彼の音楽に対する思いが、命をかけるほどのものだったことをわかった。 ま、本当はラリってただけかもしれないけどね。

短命は美徳

短命は美徳だ。人間、長生きなどするものではない。

田舎の平日のファミレスは老人だらけだ。机を老人が3,4人で囲って、300円のドリンクバーで何時間も近所や家族の愚痴を言ってる。 彼ら・彼女らは何をやっているんだろう? 近所や家族の愚痴を延々言い続けることに何の意味がある? 彼ら・彼女らだって若い頃は日本を変えると言ったり、恋愛をしたり、金儲けに打ち込んだりしていたはずだ。 でもそんなことはすっかりわすれて、いつ死んでも誰からも困られることもないような生活をしている。それに何の意味がある?

70歳を過ぎた老人が死んでも誰も疑問を持たない。「悲しいけど、もう年だったし、十分人生を謳歌したよね」というだけ。 そこには納得がある。 でも10代の人間がいじめで自殺をすると「まだ若いのに可哀想に」と思う。そこに納得はない。理不尽があるだけ。

人間は何歳で死ぬのが適切だろうか? カートのように27歳か? 僕は今年29歳だが、生きる意味がわからなくなっている。深い絶望の霧が立ち込めていて、まるで老後を過ごしているような気持ちがある。

仕事はほどほどに充実していて収入面に不安はなく、家も車を手に入れている。 案外、安定した生活というものは刺激がなくやることもない。 留学でもして世界を広げなければ、もう退屈で死ぬしか無いと思っている。 たぶん、30歳というのが人生の区切りなのだと思う。

普通はきっとそういうときは結婚して子供を作るのだろう。

でも僕は母が嫌いだから自分の遺伝子が嫌いだ。子供など持ちたくない。 もし僕に子供が出来て、それが母親そっくりの娘だったら?あるいは僕によく似た息子だったら? 最悪だ。きっと僕は死にたくなる。絶望で死んでしまうだろう。

自分の遺伝子が怖くて、パイプカット手術をうけるかどうかを数ヶ月間悩んでいる。 生は恐ろしい。自分が新しい命をつくるなんておぞましい。恐ろしい。

僕はアスペルガー症候群で、好みの女性のことを性の対象としか見れなくなってしまうことがある。 共感能力が低くて、相手の気持ちがよくわからない。 体目的で付き合っているつもりはないけど、相手からそう言われることが多々あった。 実のところ、体目的じゃないなら何なのかというと、言葉に詰まる。 僕は女性のことを柔らかい人形のように思っているだけなんじゃないかという猜疑心が払拭できない。 僕はただ、性欲が暴走して相手を傷つけているだけなのかもしれない。 好みの女性を前にすると、自分の性欲や感情や行動をコントロールできなくなる。 無駄に強い性欲がひたすら無駄だし、そんな自分が気持ち悪い。

相手の体に魅力を感じていることは事実だ。 僕は太った女性が好きだ。太ってない女性を性的な目で見ないから、女性友達は痩せている人が多い。 きっと僕は痩せている女性から見れば、下心のない誠実な男性に見えるのだろう。 そうじゃない。性的な興味がないだけだ。 同性愛者の男性が女性友達と接するようなものなのだと思う。

話がそれたが、人間は30歳まで死ぬのが美しい。 それ以上生きるなら、第2の人生を考えなければならない。 それでもせいぜい60歳までには死ぬべきだろう。 それ以上生きても、何もないように思う。 ファミレスで近所の愚痴を言うだけの存在になるだけだ。

そんな虚無に僕は耐えられない。

人間は疲れて生まれてきて、休むために生きている

これは「モンテネグロの10戒」の最初の言葉。これはどのくらいネタでどのくらい本気なのかよくわからない。 でも、モンテネグロ人はとても怠惰らしい。ギークハウスに長く関わる者として共感できる部分が多い。

僕はずっと自分が生まれた意味について考えていた。 クソみたいな母親から生まれて、クソみたいな田舎と学校で育って、会社文化に馴染めず、結局、個人事業主をやっている。 どこに言っても変人呼ばわりされ、社会に適応できている気はしない。

人生というクソゲーに強制参加させられたことに対する理不尽を常に感じている。 親に対しては、よくも産みやがってという恨みしか無い。 長い長い退屈と暇つぶしを強要されている。

だから「人間は疲れて生まれてきて、休むために生きている」という言葉を知った時、少し気分が楽になった。 人生に目的などなくてもいいのだと。 ただ死という状態に疲れて、休むために生があるのだと。

僕は眠りが浅いのだが、時々死んだように長時間眠ることがある。 20時間寝て、1時間起きて休憩して、また10時間眠る、といった感じ。 生きることはこの1時間の休憩のようなものなのだと、この言葉を解釈している。

死んでいる状態が真で、僕はただ休むために生きているのだと。

人生に目的はないかもしれないが、納得の行く最期を見たい

モンテネグロの10戒は僕の気持ちを少し楽にしたが、それでも僕はまだ人生の目的がほしいということに未練があるようだ。

自殺について数週間考えていた。

昔から自殺についてはよく考えるが、賃貸物件で死ぬと大家に迷惑がかかる感じがして嫌だった。 それにマンションで孤独死してどろどろに腐った死体を発見されるのも嫌だった。 できれば誰にも迷惑をかけずにさらっと死にたかった。

そういう意味で、今住んでいる家はとても理想的だと気づいてしまった。 いや、意識していたわけではないが自分の行動は、死ぬのに理想的な環境を求めてこの家を買ったのかもしれない。

自殺は練炭か首吊りがいいと思っている。 飛び降りも考えたが、バンジージャンプをやってみたら存外に怖くて嫌だった。 飛び降り自殺をすると落下中に気を失うという話があるけど、あれは嘘だと思う。 きっとみっともない叫び声をあげながら情けなく潰れて死ぬ。死ぬときは静かに死にたい。

練炭は静かに死ねて良いのだが、密閉空間が必要になるから発見してもらえない気がする。 できれば死んだ後、その日のうちに発見されてほしい。 人通りが多少あるところで車で死ねば発見してもらえるかもしれないけど、ちょっとあやしい。

だから首吊りが一番いいと思う。僕の家は地上から浮いたような構造になっている。 家の真ん中に大黒柱があって、たぶんこれにロープをくくりつけて窓から飛び降りたとしてもしっかり支えてくれると思う。 ロープはもやい結びにすれば輪の大きさが変わらないから苦しくないだろうし、死体を下ろすときもほどきやすいから楽なはずだ。 家の窓は外から見えるから、さすがに首吊り死体があれば別荘管理会社の人が道を見回る時に発見してくれるだろう。 多少、虫や鳥に体をたべられるかもしれないけど、まぁそれは自然の摂理だから別にいい。 僕の母がウジ虫の湧いた僕の死体を見るならいい気味だ。 そして僕の家は両親が相続する。築50年の物件だから処分するのは骨が折れるかもしれない。 それもいい気味だ。相続税が安いのが残念なくらいだ。

ここまで具体的に考えておきながらなぜ実行しないのか? 生に未練がある自分がひどく醜く情けなくだらしない感じがして嫌だった。美しくない。 人生の目的などというものにまだ未練があるのかと悩んだ。 「人間は疲れて生まれてきて、休むために生きている」と自分に言い聞かせた。 死はただ再び眠りにつくだけだと自分に言い聞かせた。

それでも死ねなかった。 酒を飲んだ勢いや鬱に飲まれて死ぬのが嫌だった。

要するに、僕は自分の死に納得が欲しかった。 自分の人生というストーリーに納得の行く最期が欲しかった。

普段、何も考えずに虫や魚や動物を殺して食べているのに、自分の死には納得がほしいというのも滑稽なのだが、 僕が今自殺しない理由はたったそれだけだった。

ただ自分の人生を少しでも面白くしたかった。

生きることに向いてない人間は死んだ方が幸せなのかもしれない

生を美しいと思えない。だから生きることに向いてない人は死んだほうが幸せだと思う。

僕の母はいつもヒステリーを起こしている人だった。いつも何かに怒っていた。 なぜあんなに何もかもに怒りを抱いていて、常に喚き散らしているのか不思議だった。 よく疲れないものだと思う。僕は怒るとつかれるから、なるべく怒らないようにしている。

今にして思えば、あれはASDの症状だ。 常に周りに対して理不尽さを抱いていて、家族を含めて他人を信用せず、自分勝手な考えを絶対的普遍的に正しいと信じている。 短大しか卒業してなくてマルチ商法にひっかかったりするくせに、自分の頭がいいと思い込んでいて、まわりの主婦を馬鹿にしていた。 親しい友達は一人もおらず、子供が嫌いなくせに何故か学童保育を仕事にしていた。 仕事は相当嫌だったらしく、金曜日の夜に酒を飲んでいるときだけ若干機嫌が良かったが、それ以外は話しかけないほうが無難だった。 話しかけるとよくわからない理由で怒りはじめて、ひどいときはそこらへんにあるものを投げたり壊したりした。

母はある時期から右翼思考に傾倒し、中国・韓国をひどく憎むようになり、陰謀論を信じ始めた。 その頃が最悪で、口を開けば何時間でも謎の陰謀論 (例えば大震災は地下で核爆発がおこっていて人工的に発生されているとか) と中国・韓国に対する罵詈雑言を言うようになった。 話を遮ると、「お前は人の話も聞けないのか」とひどく機嫌が悪くなり怒りちらした。毎日毎日食卓で何時間も陰謀論を聞かされる生活...。 父は仕事で深夜に帰宅してくるし、兄は寝てるかバイトにいってるかで食卓にいなかった。つまり母から逃げていた。 受験勉強で忙しい僕だけが食卓で母と2人、地獄のような夕食をしていた。僕はただひたすら黙って食事をしたかった。 母は料理が上手だったが、実のところ母の料理の味を全く覚えていない。 食事の時間がひたすら苦痛だった。母と数分間顔をあわせなければならないことが苦痛だった。 そのせいか今でも食事にあまり興味がなく、カロリーメイトを食べている。

僕が実家に帰りたがらないのも当然だと思うんだけど、なかなか他の人はわかってくれない。 なにが親を大事にしろだ。ふざけやがって。「よくも生みやがって」が正解だ。

母は統合失調症だったのかもしれない。 PlayStation Network個人情報流出事件があったとき、母は 「私はダ・ヴィンチ・コードの映画をみた時、ソニー製のパソコンが出てきて違和感を感じていた。 映画でメーカーのロゴがしっかりでることなんて珍しいじゃない? あれできっと白人が日本の会社が映画にでることを許せなかったんだよ。 だから白人がハッカーを雇ってソニーをハッキングしたんだよ。だって、ソニーほどの大手が不祥事なんて起こすわけないじゃない?」 と言った。真面目な顔だった。 その時、改めて母はやばいやつだと思った。

母は母なりに周りの人間とうまく出来ないことに課題を感じていて、大量に心理学の本を読み始めた。 陰謀論を信じるくらいだから、よくわからない宗教っぽい本や自己啓発本も読んでいた。 僕からすると、まるで自分で自分を洗脳しているようで不気味だった。 何度か本を進められたこともあるけど、1冊も読まなかった。

まぁ、つまり、母の主張はこうだ。自分が周りとうまく出来ないのは心理学を学べばうまくできるはずで、自分に欠陥はないけどうまく振る舞えていないだけだと。 今にして思えば、 母が読むべきは心理学の本じゃなくて発達障害の本だ。アスペルガー症候群自閉症の本を読むべきだ。 母は心理がわかってないんじゃなくて、そもそもASDでまわりの情報をキャッチアップできてなかったんだと思う。 子供が真剣に話をしていることがわかってなかったし、自分と違う考えを否定することしかできてなかった。 人の話を聞くのが下手でどうでもよさそうだった。とにかく自分の話がしたいようだった。 自己評価は異常に高かったし、逆に周りの人行動をすべて悪意として捉えていた。 同居していた祖父母や父はそれなりに人徳者だと思うのだが、母にかかれば悪意の塊だった。

最悪なことに母は他人を傷つける才能があった。母に才能があるとしたらそれだけだった。 人が言ってほしくないことを言ってほしくないタイミングで、全力の大声でいう能力があった。 支離滅裂な理屈でも大声でヒステリーを起こせば、相手がビビって反論してこないことを本能的に知っていたようだった。 長年彼女の行動がよくわからなかったけど、つい最近知人の女性から「私は人を支配したいのだ」と言われて腑に落ちた。 母もきっと人を支配したかったのだ。僕にはその感情が全くわからない。 僕は人間がどんな動きをするか観察するのが好きだから支配なんてもっての外で思いつかなかった。 でもこの世には、他人を支配して自分の意のままに動かしたいという気持ちをもった人もいるようだ。そして母はそういう人間だった。

母が他人に対してできることは、ひたすら相手を否定して、否定したところに自分をぶつけて、相手を自分の色に染め上げること。 否定することで自分がいなければダメだと相手に思わせること。つまり典型的なDV人間だった。

でも僕もまた偏屈な人間だから、どれだけ母に否定されても決して僕は母の色に染まらなかった。 僕もASDだから母のいってることがよくわからなくてキャッチアップできてなかったからだ。 それがまた母には気に食わなかったらしく、ヒステリーが増していった。

母のような人間は生きている限り幸せにはなれないだろう。生きている限り怒りから開放されないだろう。 こんな人間はきっと死んでしまったほうが幸せだと思う。あまりにも生きて幸せになる能力が無さすぎる。

母の葬式に出るつもりはないけど、もし何かのことで母の死を知ることが出来たなら、 ようやく静かに眠ることが出来たかとお祝いしてあげたいと思っている。 僕が母に向ける優しさはもはやそれだけしかない。

本当に、はやく安らかに死んで幸せになってほしいと思う。

人間は他の生物同様、簡単に死ぬ。つまり命は軽い。命を大事だと思うなら自分で守らなければならない。

「命は地球より重い」って言葉がある。馬鹿じゃないのかと思う。そんなわけない。

人間は溺れたら死ぬし、刺されたら死ぬし、交通事故でも死ぬし、頭をぶつければ死ぬし、高いところから落ちても死ぬし、 病気でも死ぬし、薬をのみ間違えて死ぬこともある。

人間だって他の生き物と同様に簡単に死ぬ。命は軽い。勘違いするな。 大事だと思うなら、自分で全力で守らなければならない。

昔、見ず知らずの女性が眼の前で川に溺れたことがあった。 僕は助けに行かなかった。 川の流れは速く、そんな川でライフジャケットもつけずに遊んで流されるなんて愚かだ。 愚か者が死ぬのは自己責任だ。 僕は川に入りさえしなかった。川が怖かったからだ。 川は前日の雨で泥が多く、まるで沼のようだった。 あんな泥水を飲んで溺れ死ぬなんて僕は嫌だった。

見ず知らずの人間のために自分の命を賭けるなんて、僕はしたくなかった。 でも近くにいた知人たちは助けにいった。 僕に言わせれば、彼らは自分の命が軽いってことをわかってなかった。 自分が簡単に死ぬということをわかってない。その危機感のなさにイライラした。 彼らが二次災害で死ぬ可能性は十分にあった。彼らが死ななかったのは偶然でしか無い。

見ず知らずの人間のために自分の命を賭けるのが正義なのかもしれない。 でも僕は愚かだと思う。 彼らには彼らなりの正義感や死生観があったのかもしれない。 でも僕には、彼らが単に人が死ぬってことを想定して生きてないだけのように見えた。 人間はいつだって簡単に死ぬし、自分も例外じゃない。 誰かの命を守りたいなら、それは当然自分の命を賭けることになる。 命をかける価値のある相手なら助けに行けばいい。 僕だって溺れていたのが親しい人だったら助けにいった。 でも見ず知らずの人間にそこまでする必要があると僕には思えない。

命は軽い。守れないなら死ぬだけだ。 納得のいく死がほしいなら、生き抜かなければならない。